今日は次女の入学式です!さとうみかです。
罪悪感についての考察をシェアしたいです。
罪悪感というのは、「不要である」というのがここ最近の流行りですが、罪悪感を無くそうと思っても消えなくて苦しんでいる人が多いです。
罪悪感は消そうとするのではなく、「愛と尊敬と感謝」に変換するものです。
私が考える「愛と豊かさに繋がる罪悪感の取り扱い方」はこんな感じです。
- 人間はみな極悪人である
- 罪を認識できるから、尊敬と感謝の気持ちが生まれる
- 罪悪感を「愛と尊敬と感謝の気持ち」に変換して、豊かな人間関係・人生をつくろう!!
「罪悪感」を「愛と尊敬と感謝」に変換する取り扱い方
罪悪感っていうのは、今まで「不要」だと思ってましたが、感じること全てが豊かさに繋がっているんだから、「罪悪感」さえも例外ではないはず。
どんな豊かさかな〜と考えてたんですよ。
そしたら、心に浮かんだのが 仏教の「人間はみな極悪人である」という考え方です。
今読んでいる「歎異抄」での親鸞聖人も、同じような前提があります。
警察に捕まるような罪を犯してない私達でも、すでに人間として生きているだけで、罪を犯して生きている。
ここでは広い意味での罪になりますが、「生きていること自体が罪である。」ってことです。
確かにこう書くと
「生きていることに夢も希望もないや〜ん。」と嫌悪されがちですが、実はこの言葉は、希望と愛に溢れた言葉なんです。
そういう罪も含めて許されている存在である。
こういう事実をみてみると、世界への捉え方が変わってきます。
ここで罪悪感のままで終わるんじゃなくて、罪悪感をひっくるめて、「こんな人間ですけど、生かしてくれてありがとう♡」っていう気持ちに繋がるんです。
罪悪感の扱い方って、これがしっくりきます。
より良い豊かで良好な人間関係をつくっていく時に、この姿勢ってとても大切です。
進撃の巨人と仏教が繋がった!
罪悪感と感謝が繋がった時が、もう一つあって・・・
それが進撃の巨人です(笑)

割と、進撃の巨人は哲学的な要素が多いので、仏教と巨人が繋がるんです。
この作品ではたくさんの仲間が死んでいきます。
初めの頃の調査兵団の団員であった人は、もうすっかりほとんど死んでしまっていて、団員メンバーは総入れ替えくらいになってます。

兵団をまとめるエルヴィン団長という人がいますが、どこの場面かはみつけられなかったけど、すごく印象的な場面があって
それが
「今まで私はたくさんの団員を殺してきた。仲間の屍の上に、今立っている。」
みたいなセリフを言って、漫画もその描写が描かれてありました。
目的のために仲間を躊躇なく特攻させるので、冷酷とか悪魔とか言われているエルヴィン団長なんですが、そんな団長の悲しみの深さと、仲間に対する深い愛と尊敬と感謝の気持ちが、ズシーーーン・・・と胸に響いた場面です。
って、どんどんエルヴィン団長に惹かれていった私です(笑)
悲しみを背負える男は、かっこいいです♡
- いつもこの罪を背負って生きてきたんやな〜
- この深い悲しみがあるから、こんなにもいつも迷いなく進んでいけるのかな〜
- 罪悪感を包み込んで、感謝と生きるパワーに変換してるんやな〜
と感じたのと同時に
これって、私の生きる世界も同じやな〜って その時に感じました。
平凡にいつも暮らしていますが、たくさんの人間や動物の死の上に、私の「生」は成り立っているんやな〜。
生きる世界は違っても、構図は似たようなもの。
ここで仏教の考え方と繋がったんです。
「人間はみな極悪人」というのは、「こんな私でも生かしてくれている世界への尊敬と感謝の気持ち」を、心に刻むことのできるワードなんです。
日常でも罪悪感を愛と尊敬と感謝に変換する
同じ要領で、日常で罪悪感を感じたら尊敬と感謝に変換したらいいです。
「ワガママでごめんなさい。こんな私を受け入れてくれてありがとう♡」
「ちゃんとできなくてごめんなさい。いつもフォローしてくれてありがとう♡」
こんな風に罪悪感を扱うと、日常生活で尊敬と感謝の気持ちが溢れてきますね。
それと同時に、周りの人間関係もどんどん豊かで良好になっていくこと間違いなし。
結果的に、罪悪感が豊かさに繋がっていますね。
罪悪感を「愛と尊敬と感謝の気持ち」に変換して、豊かな人間関係・人生をつくろう!!
まとめ
私が考える「豊かさに繋がる罪悪感の取り扱い方」はこんな感じです。
- 人間はみな極悪人である
- 罪を認識できるから、尊敬と感謝の気持ちが生まれる
- 罪悪感を「愛と尊敬と感謝の気持ち」に変換して、豊かな人間関係・人生をつくろう!!